ひでくまっくす

日々の日記と、教会の事、ゴスペルクワイアの事、先生をやっている日曜学校の事を書いたBlogです! 去年くらいから教会の世代交代とコロナで教会の記事より日常の記事が増えています。

イザヤ書30章21節

昨日のゴスペル礼拝後に妻が一人で祈ってもらった時に言われた事を僕に話してきた。

それを聞いて思った事を(自分への記録として)ブログに書きたいと妻に言ったら、
最初はまだ書かないでと妻は言っていたのだけど、僕が書きたいと言い続けていたら
少したって了解してくれた。

その内容とは...その前にイザヤ書30章21節を書こうと思う。

あなたが右に行くにも左に行くにも、あなたの耳はうしろから「これが道だ。これに歩め。」と言うことばを聞く。
イザヤ書30章21節

「録音しておけば良かった・・。~実は詳しくは覚えてない。」と言いながら話してくれたのだけど、妻がお祈りの課題に出したのは「2人で神様の為に働きたいのだけど、主人(僕)が今のところ普通の人なので」という事らしい。その後のお祈りの中でイザヤ30章21節が出てきたので驚いたという事だ。何故に驚いたかというと、イザヤ30章21節といえば、僕が29歳の時に転勤を命じられた時に、教会を離れたくないという理由で会社を辞めるか迷った時に、御言葉で納得して決断をしようと思い、しかし、御言葉に詳しくなかった僕は、御言葉集の本から何か良い御言葉は無いかと探し、その本からこの御言葉を見つけて、読み、辞める決意して、新卒で入社し正社員として10年勤めた会社を辞めた。その後、イザヤ30章21節はメールアドレスになったり、IDを取得する時に使ったり、必要だと思われる人に話したりと、常に心にある。
そのような御言葉がお祈りの中で語られたのは、確かに驚きだし、意味があると思いたくなる。こうして書いていると、数年前に(この御言葉で)会社を辞めた時の話しを義兄(牧師)にしたら、「それは献身の御言葉だよ!」と眼を輝かせて僕に言ったのを思いだす。実は会社を辞めた時から何かが動き出しているのだろうか・・・。
お祈りの中で語られたイザヤ30章21節は、妻だけではなくて妻と僕の二人に語られていたという。正直な今の僕の気持ちとしては、働きながら教会生活が出来れば良いという気持ちなのだけど、僕の優先順位は常に教会にあり、仕事は教会の次になっていて、教会の事をしているほうが充実感・満足感がある。一昨年のHillsongからの帰りの飛行機の中で書いた感想文には「人が救われるところを見たい(立ち会いたい)」とも書いている。そんな僕と、神様の働きをしたいと思い続けている妻に対して、神様の働きとして声がかかる時がいずれ訪れるという事を、妻に語られたお祈りと御言葉は表しているのだろうか?そうだとすると、語られる時は二人が整った時だろう。
昨日の午後の特別集会では「神の時」というメッセージが語られた。妻と僕の「神様の時」はいつ?どのような事なのだろう?